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医療救護チーム第2陣活動報告

朝7:30。ワンボックスカーの扉が、鈍い金属音をたてて閉じられた。手を振り見送る職員の姿がやがて小さくなって、黒い陰に紛れた。進路は北。この時ばかりは、5人のメンバー誰もが無口で、風きり音だけがその沈黙に時間の流れを映し出していた。白く雪をかぶった蔵王連山を左手に、ようやく車は石巻市街に入る。空は青く晴れ渡り、ともするとここが被災地であることさえ忘れてしまいそうになるが、その異変に間もなく気づく。東日本大震災の発生から約1ヶ月。平成23年4月15日。済生会金沢病院医療救護チーム第2陣は、石巻赤十字病院へ派遣された。全国から派遣されてくる医療チームを手際よく把握し、的確にオリエンテーションこなす現地スタッフ。こんな非日常がここでの日常なのだ。

石川県の医療チームは、雄勝(おかつ)地区を任されている。津波の被害を受けた地域とそうでない地域のコントラストの強さに言葉を失う。なぜ車が沼地に立ち突き刺さっているのか。なぜ橋は途絶え、交差点の中に家があるのか。バスがなぜビルの上で止まっているのか。瓦礫と化した建造物らしき物体の合間を、自衛隊はまだ何かを探しているようだった。町のすべてを押し流し、<なぜ>と問う意味さえ奪い去った津波。青い海が、そ知らぬ顔をして遠くに見えた。原地区は、津波の難をのがれライフラインは復旧されつつあった。巡回で山里の個人宅を訪れてゆくと、多くの人たちは、ボランティアのマッサージを受けていたり、入浴にでかけていたり、わざわざ仕事の手をとめて、かわるがわる訪れる医療チームの相手をするのは、一部のご老人たちだけのようであった。<血圧でも測ってもらおうかな。> 酒でも癒されるはずのなかった悲しみは、人に語ってどうなるものでもないのであろう。湿布や、アレルギー性鼻炎のスプレーを処方し、その日は何か違う疲れを覚え、期待に応えられないもどかしさに息を詰らせながら森林公園の避難所をあとにした。

診療2日目の朝。チームの皆に私の気持ちを伝えた。ここへ来させていただいた、こんな貴重な経験をさせていただいたことに心から感謝しているだろうか。病院の仕事は残った職員に任せて、安心して任務を果たしてきてくれという若林院長の言葉。見送ってくれた皆に、<たいしたことができなかった>と報告するためにここに来たのではない。たいしたことがないとしか思えないなら、それは自分の心が貧困であることの証でしかない。<今日もう一日。もう一日初心にかえって、何ができてもできなくても、そこで暮らしている人々の心に、ナデシコの花を届けてこよう。> <はい!> この時、済生会金沢病院の一員であることを誇りに、またこのメンバーに強い絆を感じて今度は胸が熱くなった。

M避難所。悲しみを背負った看護師がそこで家族と生活しながらも、避難所の人々の診療を介助していた。咳をしていた。タンがからんでいた。呼吸器疾患の患者さんが多くなる時期であることは周知のことだ。<マイコプラズマだとか、喘息だとかでいろいろ薬、もらっていますよ。><あの、もしよろしければ、診察させてもらってよいですか。もっとくわしく症状を教えていただけませんか?>。細菌感染とは異なり、黄色いタンはもう出ない。聴診ではかすかな気道収縮音が聴取される。ともすると見逃される軽症喘息と軽いアトピー咳が合併している。しかし、それだけでは、透明なタンがのどにからみつく症状を説明できない。家屋が崩壊すると、たくさんの環境真菌(カビやキノコの胞子)が吸引される。この時期最も想定される呼吸器症状は、これらの環境真菌による気道アレルギー疾患なのではないか。真菌の種類によっては、アレルギー性肺炎が惹起される。AC+SBS on CVA accompanied with FACC! この診断にみあった治療がここでできるであろうか。そして、そのことがこの避難所で求められているのだろうか? そして一回の診療で治療を完結できるであろうか。

山口毅医事課長はドライバーとして我々を安全にこの地へ導き、病院間の引継ぎをスムーズにこなし、今度は手際よく事務作業を遂行。金海弘美看護師は的確に血圧、酸素飽和度をチェックし、咽頭真菌培養を介助している。北野真実師長が人々に与えるその安心感は絶大で、避難生活に疲れたご老人たちにも、なにかいつもとは違う医療チームが到着したらしいぞ、という気運を高めていた。私が求める処方を熟知した後藤義之薬剤副師長は、粒子サイズを考慮した吸入ステロイド薬を自由に処方できるようにと準備は万端で、抗真菌薬の液剤を小さなプラスチックボトルに注ぎながらOK!を出している。私はいつものように、ただひたすらに呼吸器診療に専念した。最高のサウンドを奏でる、最小ユニットのアンサンブル。小さなテーブルのまわりにあたかも<石巻ナデシコ診療所>の明かりが灯されたようだった。ただの風邪ではないこと、ただの気管支炎ではないことを理解してくださった、避難所の看護師さんも快く環境落下真菌調査に協力してくださった。20年以上倉庫にかたづけてあった体育用のマットがすぐに見つかった。<このマットの上でみなさん寝泊りしてらっしゃるのよ。> FACS-JAPANの環境真菌検出用培地がそこで開かれた。

高台から見下ろすこの入り江は、珠洲の景色とよく似ていると、別の医療チームの方がいっていたけれども。。と老人の言葉はやがて悲しみにさえぎられてしまった。食べていきなさいな。差し出されたりんごをいただきながら見た景色は、菜の花が揺れて、ありふれた春の風景にも見えた。避難所からの帰り道、車窓からその入り江に残された雄勝病院が見えた。津波は、上へ上へと逃げ惑う患者や職員を、2度3度と繰り返し押し寄せるたびに高さを増しながらがら襲ったのだと。その病院こそその悲劇の舞台であったことを、翌朝の地元新聞が教えてくれた。死者64名、生存者3名。私たちに優しく接してくださった支所や避難所の看護師さんたちこそ、そのとてつもない映像を目の当たりにしながらも、今なお, 難を逃れた人々の命を任せられている数少ない職員であったことを知ったのは、我々の車が石巻をあとにしてからであった。

DMAT、オールマイティな医師、そして各部門のspecialist。誰もが大切だ。刻々と変わり行く被災地のNeedsに見合った医療チームの派遣には、Visionと正確な情報が必要とされるであろう。祈りと誇り。震災から私たちは何を学び、何を後世に伝えるだろう。

(最後に、東日本大震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の方々に、心よりお見舞い申し上げます。)

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